こんにゃくの歴史
こんにゃく芋(いも)

こんにゃくは、こんにゃく芋(いも)というサトイモ科の多年生植物の球茎から作られる加工食品です。こんにゃく芋(いも)は、インドシナ半島で生まれた多年生植物です。
現在、東南アジアには約130種類のこんにゃく芋(いも)の仲間が自生しています。その多くは、日本のこんにゃく芋(いも)と品種が異なり、こんにゃくマンナンという植物繊維の含まれないこんにゃく芋(いも)で、加工しても固まらず、こんにゃくづくりには適さないことから、食用として栽培されているのは、日本と中国の一部(西南地区:四川省、雲南省、貴州省、青海省、湖北省、湖南省)です。
こんにゃくの由来

日本への伝来は、仏教と一緒に中国からという説と、縄文時代に東南アジアから島伝いにサトイモと一緒に伝わってきたという説がありますが、本当はよくわかっていません。
中国では、紀元300年頃に栽培され、食用に供されていました。
昔は、薬(医薬品)として利用され、室町時代以降、高級品として食べられていました。 コンニャクイモを経済作物として農業に取り入れ、奨励普及されるようになったのは、江戸時代で、水戸藩(茨城県久慈地方)が関東の最初の産地として知られ、1700年代後半に中島藤右衛門により荒粉・精粉の加工法が考案され、全国各地域に販路、消費、産地が広がり、健康食品として庶民の味となりました。
群馬県におけるこんにゃくの由来

群馬県では、室町時代(1505年頃)に南牧村の茂木正峯が西国巡遊のときに、紀州(和歌山県)から移入したのが始まりとされています。
南牧村の南面傾斜地に自然生として栽培され、後に種いも貯蔵技術の発達とともに、植玉栽培へと替わりました。
精粉加工については、明治初期(1886年)に富岡市の篠原粂吉が加工技術を導入し、南牧村で麦つき水車を改良して精粉加工に着手したのが始まりでした。
その後、下仁田以西の山間の急流を利用した水車による精粉加工が盛んとなり、栽培も下仁田町を中心に広がりました。このような中で各地で生産されるこんにゃく芋(いも)(荒粉)も、次第に下仁田町に集められるようになり、やがて下仁田町は「こんにゃくの町」として、その名を全国に知られるようになりました。