こんにゃくの今と昔
小野小町も食べた?平安時代からの普及
多くの和歌を集めて平安中期に編まれた「拾遺和歌集」には「野を見れば、春めきにけり青葛(あおかつら) こにやくままし わかな摘むべく」という歌が見られます。こんにゃくを加工して食べたのは、この頃からでしょう。
俳聖はこんにゃく好き「さしみも少し梅の花…」
江戸時代になると、こんにゃくはすっかり庶民の食べ物になりました。
「蒟蒻のさしみもすこし梅の花」 この句は、元禄6年の春、松尾芭蕉が亡くなった妹のことを思いながら弟子に詠み送ったもの。こんにゃくを詠んだ句はこの他にもあり、また自筆の月見の献立にこんにゃくの煮物が登場するなど、俳聖はかなりのこんにゃく好きと言える。
弥次さん喜多さん 名物の田楽でひと思案
ご存じ「東海道中膝栗毛」で羽津(津市)の宿場に泊まった弥次さん喜多さん。夕食のお膳を見ると、3つの皿にこんにゃく、焼け石、みそが入っています。ハテサテ、どう食べるのか、思案にくれるところがおもしろおかしく書かれていますが、宿の主人の説明によるとこんにゃくを焼け石で叩いてよく水分を出し、みそをつけて食べるのだとか。羽津の宿場の名物、ということです。
ぬかるみを毎日歩くこんにゃく屋
こんにゃくが多くの人に食べられるようになると、江戸のことわざや川柳にもいろいろと登場してきます。
こんにゃくの裏表(どっちとも分からない)、こんにゃくの木登り(ふるえ上がる)、坊主とこんにゃくは田舎がよい、などなど…。
昔のこんにゃく屋は、桶に入れた原料を両足でこねて作っていたことから、「ぬかるみを毎日あるくこんにゃく屋」「こんにゃく屋桶で地だんだふんでいる」と、川柳もさまざまです。
風船爆弾作りのこんにゃく糊
こんにゃくが後にも先にも、ただ1度兵器になった−第2次大戦中、直径10m、全長が22mもある大きな風船爆弾を1万個も作るために、日本中のこんにゃく玉が集められたということです。
こんにゃくで糊を造り、和紙をはり合わせて水素を通さない気球に仕上げ、アメリカ本土を無人爆撃という、壮大なプランでした。
ステーキ、サラダ、ハンバーグ… ああ“新こんにゃく百珍”
こんにゃく料理76種を集めた「蒟蒻百珍」が世に出て大受けしたのが、江戸の末期(弘化3年)のこと。
現代では、おふくろの味から中華風の炒め物、洋風ソテーやサラダまでこんにゃく料理花盛りです。 ローカロリーの新健康食こんにゃくがブームを呼んでいる1つの表れでしょう。